Blättere gerade mal wieder durch das Buch 閉ざされた言語・日本語の世界 (dt. "Eine verschlossene Sprache") von Suzuki Takao. Das kennen sicherlich einige von euch.
Im ersten Kapitel nennt der Autor ein Beispiel für die Ambivalenz und die Schwierigkeiten der jp. Sprache, das in der deutschen Ausgabe gerade deswegen nicht übersetzt wurde. Wer schon versierter im Japanischen ist, kann sich mal mit dem Text spielen und versuchen ihn zu verstehen. Es handelt sich hierbei um einen Teil der Einleitung eines literarischen Textes eines gewissen 吉田健一.
Viel Spaß dabei.
英語で書いたもので我が国刷られてゐるものは何かごつごつした感じのが多いといふ印象を受ける。これはその英語が日本で尊ばれてゐた時代に相当する英国の十九世紀といふのがさういふ詩や文章を特色としてゐてそれが日本で読まれたのが一種のさうした先入主を我我に植ゑ付けた為かと思はれる。それが例へばカアライルの歴史、テニソンやブラウニングの詩、メリディスやコンラッドの小説であつてその中には実際にごつごつしてゐるものもあり、それを外国語で習ふ形で読む時にごつごつした感じになるものもあつてテニソンの詩のやうなものは
さういふことはなささうであつて英語の響は自然に耳に入つて来るのでなければこれも決してなでら読めるものでない。その韻律を離れて我々を惹くものがなくて言葉の意味を調べてゐるうちに響の方も失はれるからである。カアライルやコンラッドになれば原因を探すまでもなくて言葉の方面から話を別なことに移して十九世紀の英国が世界で占めてゐた位置を考へないではゐられなくなる。その十九世紀の英国はその大半に亘つて英語は凋落の状態にあつた時代でもあつてそれが十九世紀末から二十世紀の前半に掛けて一種の文芸復興と呼んでもいい程
の回復振り示したのであつても十九世紀そのものには英国の海外発展や商工業上の繁栄にも拘らず言葉の自由が利かなくなつた影が差してゐる。それと国力の伸張の結び付きに就いてここで詮索する必要はない。さういふ英語の凋落も国力の飛躍的な増強の一時的なものだつたからでそれよりも英国がこの国である為に英帝国が必要だつたのでないのと同様に英語が我々が知つてゐるもの、或は漠然と考へてゐるものよりも遙かに柔軟で潤ひがある国語であることを取り上げたい。
EDIT: Nach vergeblichen Versuchen die Zeilenumbrüche zu korrigieren, laß ich es jetzt. Das ist alles ein Absatz.